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DICTEE

TPAM in Yokohama 2012 (国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2012)で、
ダンサーの山田うんさんが踊るよ!と、みちくさ部員の
敏腕プロデューサー上原さんにお招きいただいたので、いそいそと関内の
神奈川芸術劇場まで出かけてきました。



ホールでは、プラントハンター・西畠清順氏プロデュースの展示が、
これは…(角が立つから以下略)
いや、大人の世界だもん。いろいろあるさ!いろいろ!いろいろね!

いろいろね


ぜんぜん関係ない、Ixora coccinea (夢の島熱帯植物園)

P5049436x.jpg

そんなことよりも、肝腎のダンスです。

分類するなら、コンテンポラリーダンスなのかな。
ダンスについて微塵も知識はないので、よう知りまへん。すんません。




以前に、茅ヶ崎市民会館でワークショップのメンバーとうんさんが踊ってたのを
観たので、今回は2回目。
(前回は、完敗やった。なにかに、完敗やった)



「ぜんぜん、違いますよー」と上原さんには
言われていたので、なんかちゃんとした恰好で言った方がいいような気がして、
ジャケット着てネクタイ締めていったのはここだけの秘密です。


うーん。関内という場所ということもあるし、なんか、武装してったほうが
いいかなぁと。さあ、観るぞ。みたいな。


と思ったら、みんな普通の恰好だったので(当たり前である)
さも、仕事帰りっすよ感を醸し出しつつ(嘘つけ、ちっちゃい肩掛けカバン)、
席に座っていたら、大入り。しかも、背後に八嶋智人さん。焦る。ちょう焦る。


こないだも思ったけど、時間を忘れる。
終わりの時は、え、終わるの? と思って、でも、確かに頃合いだなってところで
ぷつっと。いや。ぷつっとという唐突感はないな。しゅるっと終わる。

その間に、マタイ受難曲と、なんだか韓国の民謡に沿って踊ったり。
台詞もあるし、自由に喋ってるところもあるし。
僕は、うんさんがデフォルトなのだけど、バレエとかではたぶんないだろうという
演出がいろいろ。チョークで絵も描いてたし…










うんさんの、容貌は、失礼なこと言うけれども、眉目秀麗というわけではない。
筋肉も隆々としてるし、もちろん、ダンサーであるからには筋肉はついてるものだろうけど、
それにしても、隆々さが際立ってるように思う。関節も節くれだっている。

髪の毛も、なんだか金髪だ。その金髪にしてる感じが、なんだかぞんざいで、
荒っぽいような感じがする。そういうダンサーだ。

踊りも、流麗というものではない。どっちかというと、能弁だし、装飾的だ。
グロテスクと見る人もいるのかもしれないけど、グロテスクとも微妙に違う。
子供の動きのようでもあって、子供の動きのような動きを細心の注意を払って再現してますよという
のがちょっとばれちゃってる?うふ?みたいな動きをしてる。

余計に分かりにくい? ぐふ…






流れるように動くことを放棄してるというか。がたぴし引っかかったり、力んでるようなこともあるし、
じたばたしたり、泣きわめいたりすることもある。


前に観た時は、その「泣き喚く」というようなカタルシスを見せるのかなとも
一瞬思ったけど、ある意味それは楽ちんな解決で、そうはしない人なのであった。











なんというか、「泣き喚く」のも「唸る」のも「子どのものように動く」のも
限りなくそのもののようで、でもやっぱり振りつけられてるもので、
緻密に構成されているという感じを受ける。

あたかも、観客席に石を(ある「なになにの、ような」動きという石)を投げ込んで
どうなるのか観察してるかのような感じ。




とか思ってたら、喋ってるなかで
「あたしは、そっち(観客席)も、こっち(舞台)も両方見える。これってお得かなぁ?」
って言ってはった。お得ですとも、とぶつくさ言った(もちろん、頭の中で)


話が行ったり来たりしてる。


動きが能弁で、装飾的だと言った。すごく考える人なんだろうな、という感じがする。
で、「考えること」と「無心に踊ること」の間を振り子みたいに、行ったり来たりして、
それを舞台で見せてるような気がした。



どうして、そう思うかと言うと、マタイ受難曲の部分が2回あるのだけど、
明らかに、その部分は、いらいらさせる(とまでは言い過ぎとしても、困惑させる)ように
踊ってる気がしたから。




いちおう、カトリックなので、こうした教会音楽には親しんでるほうだと思うけど、
(詳しいということではなくて、子供のころから染み込んでるという意味で)
あの踊りは前にも観たような、おそらくはいつもの語彙で踊ってるうんさんの踊りで、
マタイ受難曲には場違いな(どっちが場違いか分からないけど)感じがした。

すくなくとも、教会で古典的な善男善女がいる場で踊ってたら、
眉を顰めるような感じ。


ああ、これはわざとやってるんだろうなって思った。
1回目の終いのほうで、急に曲になじんだように思ったから。
(これまた失礼な話だけど)
そうかぁ、こうやって曲についたり離れたり自在なんだな。すげええと感動。


その後の、韓国の民謡とのシンクロったらなかった。
吸いついてる。気持ちがいい。
そうかぁ。こうして、つけたり離したりしてご見物を手玉にとるのね。ふむふむとまた感動。



このDICTEEという演目は韓国系のアメリカ人の人が最初にやったそうなので、
うんさんは、解釈をして振付をしてるわけで、もしかして、
マタイ受難曲キライなんじゃないか?という気がしてきた。
でも、踊る。踊るとしたらこうなる…というか。


そこに喋りが加わる。
いろんな国の言葉で「この本は」と言ってる冒頭。
英語やフランス語が混じる間間の喋り。



「、」「。」込みで読んでると、口だけではいらいらするのに、
手話が入ると途端にいらいらしなくなる。不思議だ。
いらいらする、こっそり席を立って帰ろうかと思う。
でも、巻き返してくれるかもしれない(僕の期待するようなという意味において)
などとざわざわ考える。






「声」と「言葉」が別であったり、


「チョーク」という言葉の「言葉」と「実体としてのチョーク」が別であったり、
大学の時に習った「シニフィアン」と「シニフィエ」というのを思い出す。
さんざん、おフランスの哲学と環境の捉え方がどうたらというのを聞いたけど、
唯一覚えてるのが、この「アン」と「エ」。「意味」と「意味を与えられるほう」。


うんさんの踊りは、「ダンス」という語義に満足できなくて、こてこて
足し算をしてる感じがして(それが、もしかしてコンテンポラリーダンスみんなの課題なのかもしれない)
けれども、普通、洗練は引き算と愚かにも僕などは考えてしまう。


さっき、教会にふさわしくないといった。

教会の曲であったり、教会の美術などが、あれほどごてごてとしたゴチックであったとしても、
よくいうように、森をシンボリックに再現してるというけども、森そのものに比べたら、
ほとんど、絞りかすのようなものだ。その点は断言できる。

(現状において)教会は、そうした純化したものが置かれると思われている場所なのだ。

※実際は違う。信徒がさまざま抱えるトラブルは普通の社会の表には出ずに、
 神父や牧師の元にだくだくとなだれ込んでくる。汚穢のように。







けれども、その教会がまとっている聖性みたいなものは、
(仏教でいったら泥の中から蓮が出るという蓮のほう)
幻想にすぎない。

水浸しになって、
ひとまずこれ以上濡れるのやだから乗る、足ふきマットみたいなもんだ。

現実の僕たちは、垢や汗や、その他体液や、ほこりや泥にまみれている。
傷がつけばのたうちまわり、泣き叫ぶ。それが普通だ。
ときどき、濡れるのが嫌で足ふきマットに乗る。
足ふきマットに乗ると一瞬濡れてない気になるけど、けっきょく濡れてる。
気の持ちよう。


芋虫だって、つまめば、身をよじってのたうちまわる。
樹だって、剪定すれば、叫ぶようにして新しい枝を出しまくる。




マタイ受難曲のときのうんさんの踊りは、そのあたりの
ずれを(すなわち、マタイのほうがずれてるわけだけど)ついているので、
観てて、「???」と、なる。







そのずれは、当然だと思う。聖書読んでて、だいたいにおいてしっくりこないのは、
やっぱり僕が日本人だからで、「清浄な」砂漠に住んでいたマタイのような聖書の記者たちとは
1mmも理解し合えないと思う。


それでも、この国なりのキリスト教というものがある。
あまり、知られていないけど。そういうことはできると思う。



で、(仮にそうだとして)うんさんがマタイ受難曲に違和感を感じてて、
それがそのまま表現されているということは、すごくいいことだと思った。
黙ってなんとなく合わせて踊ろうと思えばできるんだと思う。
でも、納得できるわけがない。その、ずれ、違和感。







ちょうどそれは、僕がキリスト教について考えていたり、
庭とか生け花とか、いろんなものの「型」について考えているので、
我田引水でこうなった。






終わりに、
「もっと練習したいと思います」みたいになってて、
びっくりしたけど、この「ずれ」について考えていく過程なんだろうな、潔いな。
まだ結論出てねーよという。
出ないよね。そりゃあ出ないですよ。出ちゃったら悟りですよ。
三昧の境地ですよ。

でも、それを悟ってないけど「悟っちゃったオレ/アタシ」という
アーティストがごちゃんといる中で、悟れるかバーカという踊りを踊れる
山田うんさんは、なるほどかっこいいなと思った。



ただ、もうひとつの印象的な言葉
「言葉は過去から来る。踊り、動きは未来から来る」
は、前半は大賛成。
後半がいまいち納得できない(笑)ので、考えてみようと思う。



きっとうんさんの実感としてはそうなんだろうけど、
同じようには思えないので、なんでそうなのかとか、いろいろ。

いろいろね。
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プロフィール

清右衛門

Author:清右衛門
みちくさ部長。北鎌倉たからの庭にて、草木についてのほほんと語る教室をしてます。教室&ワークショップ、ツアーや活動の記録、お知らせや、日々の雑感など。

ほかにも、編集的雑用・野草を生かしたランドスケープデザイン・植物調査・公共サインデザイン・グラフィックも少々やってます。

生態学畑。園生の森、おゆみ野の森でボランティア。
いけばな尚真。たまに俳句。

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