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八十八夜

きのうは黄砂、きょうは雨。
音もなく、目ばかりかゆくて寝付けない黄砂に、
しとしととそれを洗い流す雨。
これにもまた名前があるのだろうけれど、
雨の名前は、ちっとも知らない。

こないだこんな句を詠んでみた。
…で?という感じだけど。よくできた感じがする。

春霖 耳ふさいで 眺む

雨って奥が深い。とても
雨がずいぶん降りだしたら、もう春は馳せて止まらない。

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オウゴンカシワと師匠

その話にふさわしい日のような気がして、
今日は、ずっと頭の中で寝かせている考えをまとめてみようと思う。
言葉にして切り離すというのが、このブログの趣旨だ。
考えることは、いくらでも移ろうから、
実は、自分の考えが文章になることがそれほど大それたことに思われない。
ゆえに、ツイッタでも流したままにして消えるに任せている。
後になって、思い起こせないことは、
それほど大したことではないんだと思う。

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源氏山の上にあるおうち。Anisodontheaかな?


大した話じゃない。
じつは、身の回りにありふれたことなんだけど、
ふと立ち止まらないと気がつかない。

ある日、ツイッタで友達のガメさんに
「人間の世界には、言葉というものがあるだよ」
ということを言われた。

ここで、ある日本人作家なら「人種差別野郎!前へ出ろ!」と牙を剥くか、
あるいは違うところで「やれやれ、あいつときたら」とけなしていただろうと思う。
そして、そう思う人がいても仕方ないのかなとも思う。
日本人の中においては。

だが、待てよと思った。
日本人にとって言葉とはなんだろうか。

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たからの庭 深紅のつばき

こないだ、空気がぬくくて気持ちよく、
駅から実家まで歩いた。
むかしの地形でいえば、養老川の三角州の広大な沼沢地を
ひたひたと横切りてな具合で、イエイツのケルト民話で
幽霊かなんかに騙されて、死体を担いでるような感じもする。

その日はでもまあ、風も穏やかで(ふだんはけっこう吹きさらし)
柳も夜闇に金色の影をゆらゆらとして、わりと機嫌良く歩いていた。

そしたら川の向こうから、歌声が聞こえる。
なんだか分からないけど、ポップな歌を歌ってる。だんだん近づいてくる声。

篠竹の陰から、ふっと自転車に乗った20代くらいの女の子が現れた。
そうか、気温がよいから思わず大声で歌っていたのだなぁ。
と、思ったら、僕に気づくなり気まずそうに音量を絞る。
でも、いちおう歌い続けながら、彼女は走り去った。

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たからの庭 白のつばき、落花

ああ、僕は、夜なかに気持ちがよくって鼻歌を歌ってはイケナイ国に
住んでるんだと思った。でも、法律には書いてない。書いてないけど、
「日本の心は察しと思いやり」だから書いてなくても
鼻歌なんて歌っちゃいけないだろうかと思って、寂しくなった。

いやいや、俺もわたしも、誰もいなかったら歌いまくるよ!?という人、
多いと思う。僕だってそうだ。…でもさ、「誰もいなかったら」だよな、という気がする。

おばあの話を思い出す。
21歳で川向こうからお嫁に来た。国府があった品のいい方から来たおばあは、
万事が万事、左岸のしきたりになじめない。いま口にする以上の苦労があったと思う。

ある日、鼻歌交じりに洗濯をしていたら、舅さん(僕のひいおじいさんだ)が
やってきて「このバカ嫁、鼻歌なんか歌いやがって」と殴られたらしい。
そしてその日から、70代くらいになるまで鼻歌なんて歌った試しがなかった。
少なくとも人前では。

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たからの庭 ムラサキケマン

まるで「おしん」のような話だ。
でも、おばあは耐えた。耐えて耐えて、舅姑が亡くなったのちもこの家に
残り続けた。残っているうちに生家は代が代わり、もう帰る場所がなくなってしまう。
それは、うちのおかんにしても同じことだけど。
時代と併せて考えれば、よく正気でいられたと思う。

あるいは、時代のおかげで正気でいられたのかもしれない。

養老猛司の言う「世間」、さいきん若者が使う「空気」
たぶん、他の国でも全体的な雰囲気 atmosphereって言葉もあるし、
似たようなものがあるのだろう。
けれども、ツイッタで知り合った(主に西欧を中心とした)外国を知る人が
気づく、日本の特殊さはその「空気」の作りだす強烈な圧迫感だ。

もし、この空気がなかったらおばあは鼻歌交じりに家事をこなし、
うちの父の兄弟はもっと朗らかな性格になったであろう(笑)
そして、朗らかには違いないけど、いささかクレイジーなおかんのような
嫁はんは貰わずに済み、
僕のように、そのことについて考えをモツ煮込みのようにぐつぐつ煮つける人間は
生まれなかったことだと思う。

まあ、じゃあ結果としてはよかった面もあるとしたら
そのくらいだ。

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江戸川 桟橋

それを採りて、「だから日本ときたら」とこき下ろすことが
日本のなかではカッコいいということになっているらしいし、
気をつけないと僕もそういうことを口走ってしまうこともあるけど、
それがいいとか悪いとかには、究極において、余り興味がない。

なんで、そうなったんだろうとつらつらと考える。
考えてるうちに、誰かの言葉でやはり引っかかって結論がもやっと見えた。

「日本人は植物である」とね。

動物ですよ。生物学的には。
まあ、植物、というか、人間ではないというべきかもしれない。
何を無礼なこのすっとこどっこいと怒るなかれ。
これって結局、日本人が日本人である限り客観的には
結論付けられない話だから、どっちが真実かはなんとも分からない。
真実なんてないのかもしれない。

ただ、外国の人々が日本人に対して抱く「とても奇妙な感じ」を
説明するには、こう言うしかないような気がする。

日本の社会はさしづめ植物や昆虫や菌がひしめき合う生態系に似ている。
とても似ていると思う。もちろん、あらゆる人間の社会もそうだろう。
でも、「普通の」国では言葉が、国家レベルのあれこれはさておきとして
鼻歌を歌えるとか歌えないとかそういうことを「話す」ために
用いられるんじゃないだろうか。

言葉が、人間を人間たらしめているというような。

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園生の森 イカリソウ

けれども日本語は、僕自身の立ち位置のなせる技なれど、
「いくつものわたし」を使い分けることを要求する。
ここではこんなわたし、あっちではこんなわたし。

したがって「本当のわたし」などと言っていると、
「早く大人になれ」と言われるし、
ちょっとマイペースに生きてると「あいつは変わり者だと言われる」
それはそれで、そういう社会と言ってしまえばそれまでだけど。
その結果、「会社員のわたし」が優先され、
原発で決死の作業をさせられそうになったりする。

その点を言い出すと長くなるから、先を急ぐ

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江戸川 アカメガシワ

草を見ていると、荒れ地には、荒れた感じの植生が生まれるということがある。
時間が経って熟成された場所の草どもは、しんと落ち着いて
「あ、あんたここね。そう、ここまで、そうそう。それであなたはここね」と
ひそひそと言いあって縄張りを決めてるかのように、整然としている。

えらいとこから引用すると、『劇場版ヱヴァンゲリヲン:破』で、碇指令が
「カオスは人の印象に過ぎない。世界は調和に満ちている」というのがある。
まさにそうだとおもう。カオスは人の印象に過ぎない。

植物は、(あるいは昆虫でも何でもいい言葉を持たないものたちは)、言葉以外の
化学物質、物理刺激、局部電位とか、根っこの菌圏とか手練手管を弄して
日々お互いを牽制し、いったん状況が変われば、
なんの手加減もせずに、増える。増えて埋め尽くしたり食べつくしたりする。
個々の種はそれぞれ一切加減がない。それゆえ、僕は植物が好きだ。
言葉を持たない生き物が好きだ。

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4月11日の由比ガ浜

そして、そのことを知っていると、にんげんも少しは優しくなれる。
僕たちとて、生存を懸けたら、なんの躊躇もなく、
手加減をしない殺し合いに身を投じることもできる。
けれども、「できる」と知っているから、その力を抑えることも、
違う方向に向けることもできる。出来ないこともあるけど。
そのために言葉がある気がする。

日本人の場合は、殺し合いもしていたけど、
どちらかというと植物のように常に「空気」で牽制をし合ってきたのだと思う。
伝統的に。

それは、辺境の吹きだまり(生き物にしてそうだ。だからこそ多様性が高い)で
常に災害を受けながら群体を維持する上で不可欠な適応だっただろう。
個人よりも、群体を緻密と作ること。例えばお祭りなどで、
初めて顔を合わせたものどうしでも、ちょっと言葉を交わせば「空気」で状況を察して
整然と動きだすようすは、確かにちょっとヘンかもしれないと思う。

言葉の介在がたぶん少ない。
したがって、個体が受けるさまざまな傷は、個体では完結せずに
群体の中で伝播していく。
あたかも、植生が受けたダメージがその植生の質を変えるように。
笹を刈ったら、キンランやタチツボスミレが急に溢れるように。
たぶん、おばあが殴られたというようなことは、巡り巡って、
自転車の女の子の口をつぐませたのではないかと思う。

それをただ、中から見ている。


それが、今のこの国なんだろう


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園生の森 キンラン

そうとわかったら、やるべきことはただ一つ。
それをただ、端的に言葉にしていくことのように思う。
そうしなければ、僕は自分も自分の大切な人も守ることができない。

僕がそれを知ってしまって、僕が受けた「殴られた」ことを
全部集めて大切なひとにぶつけるようなことはできない。
それは、人間のすることではない、ように思う。
だから、言葉にする。大したことはできないけど。

それが、僕が腕力でも、手先の技でもなく、
言葉をもって泳いでいくことの意味ではないかなぁ。

野べに虫満つれば 君のキゲンよきかな

なんてね
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プロフィール

清右衛門

Author:清右衛門
みちくさ部長。北鎌倉たからの庭にて、草木についてのほほんと語る教室をしてます。教室&ワークショップ、ツアーや活動の記録、お知らせや、日々の雑感など。

ほかにも、編集的雑用・野草を生かしたランドスケープデザイン・植物調査・公共サインデザイン・グラフィックも少々やってます。

生態学畑。園生の森、おゆみ野の森でボランティア。
いけばな尚真。たまに俳句。

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