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サナトリウム・シンドローム

元気ですか。
元気があればなんでもできます。
行きますよ。それ、いち、に、さん、だ~(力なく)

植物にかかわることをいろいろしていると
「庭って癒されますよね」とか「公園て癒されますよね」とか
あるいは、「庭/公園って癒されるようになっているべきですよね」という
声を否が応でも聞かされる。半ば脅迫されるごとく、「癒されますよね?ね?」
と、念を押されるので、そこは大人っぽく「はあ、まあ」とお答えすること夥しい。

先頃もツイッター上で、熊本の大学院生・ハラケン氏と
そんなデータはないかいな~というやりとりをしたばかり。
氏は、あくまで緑地の優位性をもって放置耕作地の再生に
取り組もうとしているのだからあ、実に、あっぱれなこころばえ(えらそう)
癒されるかどうか、は自明のことでスルーしてOKな話なのである。

いっぽうで僕はといえば、「癒されるのかどうなのか」という命題に
答えるところに追い込められないとも限らない。
すくなくとも「癒し」は師匠の遠大なテーマでもあるのだ。
師匠亡き後、僕に降りかかってくるかもしれない。くわばらくわばら

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ところでその「癒し」って何だろうっていつも疑問なのである。
ハーブ、温泉、パワースポット、ペット、ダイビング、はたまたアイドル。
「癒し系」という言葉も流行った。例によって例のごとく辞書を引いてみる。
火炎瓶の作り方が載っている「新明解」である。

癒し:精神的な不安やいらだちなどをしずめて平安な気分にさせること。ヒーリング。
癒す:病気・苦痛などをなおすの意の雅語的表現

なるほど。心身の傷や病気が治る、回復する、の意で使われているようだ。
とすると、前提としてまず僕たちは心身を病んで傷ついていなければならない。
不健康でなければならない。そうでなければ、「癒す」ことができないからだ。

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単にもう自虐的なんだけれど、僕は親の方針のおかげで
子供の頃から薬漬けである。なにか調子が悪いと、西洋医学的手法で、
エレガントに原因を摘出し、攻撃し、訂正することとで病気と闘ってきた。
(まあ、副鼻腔炎と鬱病だからそんなえばるほどのものではない)
ろくに薬なんて飲んだことない人には劇的に効くらしいから、
製薬業界は僕と僕の同類のドクターコレクターの現代人たちに足を向けて
寝られないはず(笑)

さて、しかし。植物の相手をしていると病気というのがいかに
あやふやな存在かは近頃身に染みる。やつらが病気にならないためには、
膨大な「病気になるようなところに生える苗の犠牲」を払い、
「健康な立地に」生育する必要があるからだ。
と言うことは、病的かどうかは事実上住む環境で決まるのである。
(もちろん、先天性はないとはいえない)

人間の場合、「病的な場所を改善して住む」「病的な場所でも本人が工夫して住む」
という離れ業でここまで世界中に広がってきた。
とうとう南極にまで住んでいる。
この、「病的な場所」はあくまで相対的で、人間にとって病的だということ。
ほかの生き物にとっては好適かもしれない。

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「病的な場所」の「場所」または「場所にいる人間」を改変する営み。
これが、建築であり、土木であり、造園であり、
もちろん車とかパソコンとかも広義ではそうなるかな。
ともかくあらゆることが改変するために作られてきた。

その結果、今日、現代人は「癒し」を超欲してるらしいです。
都市緑化技術開発機構のご説明(ハラケン氏が教えてくれました。多謝)
http://www.greentech.or.jp/platform/download/platform_a09.pdf
全文を読むとげっそり(失礼)するので前文を見ると、
ともかく、緑には「癒しの効果」があり、アンケートによると現代人は
癒されちゃう緑を求めて止まないのだとか。そりゃすげえ

しかし、よく考えてみるともともと現代人の努力は
「病的な場所」から脱却し、「よりよい場所」を作るためになされてきたはず。
にもかかわらず、この機構のアンケートから見えるのは
「ああ、昔はあんなによかったのに」という郷愁に思える。

いっぽう、僕の友達の甲府人いわく、
戦前まで甲府盆地で猖獗を極めた住血球虫の記憶から、
いまだに水辺に老人たちは近寄りたがらないという。
つまり、「昔は今よりろくでもなかった」わけだ
これについては、結論は出ない。
けっきょく、よくなってもい、悪くなってもいる。
長所短所を取り入れてうまいことやるしかない。

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そこで最初に戻る。「庭/公園は癒されるかどうか」
おおぜいの人が実験をしていて、緑があった方がない方よりも
・心理テスト
・唾液アミラーゼ(リラックスすると増えると)
・脳波(リラックスするとα波)
という項目でチェックするとリラックスしているのだという。

こうした実験に価値がないとは言わない。けれども、これを永久に繰り返しても
名人の作った庭ひとつを評価することは不可能だろう。
なぜならば、入力である庭(外部環境)も複雑系、出力である人間も複雑系だから。
入力をどれだけ揃えても、出力は絶対に安定しない。
従って、どっちかというと「癒し」という
現象の定義をちゃんとしたほうがいいと思うわけです。

辞書的定義によれば、「癒し」は必ず「傷病」の後からついてくる。
現代人が癒しを求めているのなら、「傷病」を求めて止まないととるべきだろう。
病と傷と健康さは本当は連続していて区別がつかないグラデーションだ。
そこに、はっきりとした線を引いて分節し、「病名」をつけるのが
いわば現代の病理だと思う。

でも、病んだもの、傷ついたものに愛着を
感じるのは文明末期に特有の状況な気もする。
杉浦日向子が江戸時代の美女の傾向を漫画にしているが、
末期で美女と言えば、猫背の目に険のあるこわーい女の人(笑)
戦前~戦後にかけてはサナトリウムブンガクとか、プロレタリア文学とか
何が悲しくってこんな陰気なものをというものが流行った。

今で言うとなんかな…エヴァンゲリオンの綾波レイとか。
枯れ専とか制服とか眼鏡とかロリコンも同一線上にあると思う。強引だけど。
すなわち、健康でもっとも充実した状態ではなく、
弱体化した(あるいは強度が増す前の状態)に対する偏愛。

これと、「癒し」「健康」はまったく位相が違うか?
そうじゃないと思う。同根ではないか。
どれもなんらかの「弱さ」に対して初めてアイデンティティを
見出そうとしている点で共通しているように見える。

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内田樹師匠の『街場のメディア論』に興味深い一節があった。
現代人がなぜ、クレーマーになるかという考察だ。
なにか問題が起こった時、まっさきにいちばんの「弱者」のポジションを確保して
自らに降りかかる責任を回避するのが、現代人の作法であるという。
「私ったらこんなに不健康なんです。だから癒されたいんです」という

左様。不健康なんだろう。けれども、どっちかといえば、「不健康さ=弱さ」を
自らの寄って立つ足場にしている状況が最も不健康だと思う。
そして、そういう風にするのがいちばん有利だという状況が構造的に生まれている。
なんだかもう、やるせない。
僕自身も気を付けないと簡単にそっちへ行ってしまう。楽だから。

運動不足だからと、ジムに通うよりも、
刈るべき草、間伐すべき木、片づけるゴミはうんざりするほどある。
不健康になる安価で栄養価のよろしくない食品流通網を作りながら
医療費が膨らんで大変だとのたまう。
複雑な巣をつくり過ぎた。それに尽きる。
だから癒されなければならないと思いつめるほどに傷ついている。

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誰かを亡くした次の日に、緑の森で癒されるなんて思うだろうか。
やっぱり悲しいのではないだろうか。
コンクリートだらけのビル街でも、美しい日差しがあれば癒されるかもしれない。
つめたい雨の降る地下道にすら、人間は光明を見てしまう。しまう。
もしかしたら「こうすれば癒されます」という庭を作れと、強いられることがあるかも。
そして、それには応じるつもりでいる。

けれども、その裏には「病的な場」の内と外のことがあること忘れちゃいけない。
外は簡単だ。仕立てのいい、美しい庭があればよい。
それは、絵を描く僕ではなく、日々の管理をする職人さんたちによって
何十年かのちに実現されるはずだ。時間を帯びた丸み。
水面のように絶えず移ろって違う表情を作る。そうでなければ、
移ろって違う表情で揺らぎ続ける人心が「収まる」場には成り得ない。

コンクリート壁にまで韜晦して合わせることの
できる人間の器用さばかりをあてにしてはいけない。
韜晦したぶんだけ壊れている。内は融通が利くばっかりに損をしている。

じゃあどうすりゃいいの、という話をこの度は止めておく。
本気の「癒し」はたぶん幻だ。でも、温泉ではあ、いい湯だなぁとやるのは素晴らしい。
いつだって、お手軽に癒せるのはちょっとした傷なのだ。
根の深い病理は、時間とか空間の大切な部分をまじめに変えなければどうにもならない。
でもできないよ現代人。だから、だましだましやるのさ。それが癒しだという。

鰯の頭も信心からくらいの、どっちでもいいよという感じで。ロックにファンキーに(←違う)
そんなんで、いいじゃない。これでいいのだ。ああもう、ぐだぐだだ

いやいやいかん。真面目にまとめないとね。

で、わたしの場合は植物をみて答えを知るのである。
病的な場を捨てよ、と。なんか宗教かよ(笑)
でもね。だって、そこに住んでいたら本来すこやかじゃないのだもの。
簡単なことでしょうよ。
気持ちのいいところに住んで気持ちよく暮らしてりゃいかっぺよ。
言うは易し、だがね(^^;
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癒しの前提

>前提としてまず僕たちは心身を病んで傷ついていなければならない。
不健康でなければならない。そうでなければ、「癒す」ことができないからだ。


ここ読んだら、何かが腑に落ちた感じがしましたぜ。

病んでいる場を捨てよ、此れも納得。

世界のどこもかしこも病んでいるので、からだにあった毒のある場所に棲みかえよという感じですかね~。

私はくすりはいらなくなりましたが、
じゃあ健康かというと以前よりいっそう病んでいる気がします。

病んでいることや汚れていることに
鈍感になったのですな。

庭も温泉も、空の星を見上げる事も

ふだん毒にまみれているから
ちょっと心地よいものを見たり、感じたりして、
なつかしい根っこの感覚を思い出せるのでみんな好きなのかもしれません。

人の根っこは音とか光とかでできていると思うので
それを思い出して懐かしい気分になるのが
癒されるということなのかもしれないと。

思いつきですが、なんとなく。

リクツ抜きで、庭は好きですが。癒されるかどうかは置いておいて。







Re: 癒しの前提

同感でやんす。
『風の谷のナウシカ』で、新しい人類が
毒に汚染された状態でしか生き残れないよう改造されている点に
対応するような気がする。
えー、小説とかで似たような事例が思い浮かばないけど…

毒に慣れることはそれほど悪いこととは思わない。
それがまっとうに生活するということだと思います。
「癒す」という言葉が
毒のあるなしから遊離し始めてると感じていて、
そっちのほうが危険。除菌や無菌の志向の危険に近い感じ。

> 病んでいることや汚れていることに
> 鈍感になったのですな。
>
> 庭も温泉も、空の星を見上げる事も
>
プロフィール

清右衛門

Author:清右衛門
みちくさ部長。北鎌倉たからの庭にて、草木についてのほほんと語る教室をしてます。教室&ワークショップ、ツアーや活動の記録、お知らせや、日々の雑感など。

ほかにも、編集的雑用・野草を生かしたランドスケープデザイン・植物調査・公共サインデザイン・グラフィックも少々やってます。

生態学畑。園生の森、おゆみ野の森でボランティア。
いけばな尚真。たまに俳句。

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