スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

医者の名乗り

無事、樹木医の試験に合格した。
もちろん、まだ登録の手続きが残っているけれど、晴れて「木のお医者さん」となった。

樹木医がやることと言ったら、だいたいは木の治療である。
確かに試験は通ったものの、治療となれば経験がものを言うので、
師匠からは5年は修行せいときつく言われている。よしきた。
どのようにするのかはさておきとして、ほいほいと治療を引き受けることなく、
諸先輩方の手元をよく見ていようと思っている。

せっかくなので、いろいろと思うところをまとめておこうと思う。
それほど、長くない。嘘。たぶん、長い。


僕は、つねづねランドスケープの仕事をしていて、
ランドスケープは人間の鑑だ、と痛感している。
勤勉な人の下では、勤勉なランドスケープとなり、怠惰なら怠惰な、
攻撃的なら攻撃的なランドスケープとなる。

ただ、表層と侮るなかれ。内面のあらゆるものは、表層と無縁ではないのだから。


そこで、日本の、特に都市部を眺めてみる。
僕は、かなり病んでいるな、と感じている。

樹木医になる前から、僕は言わば景観の医者であった。
医者というのがまずければ、「診察者」であろうとした。
この景観は気持ち悪い。この景観は気持ちがよい。なぜ? どうして?

ということを強く探求したいと思ってきた。
その結果、鑑説を唱えているのである。


景観、ランドスケープにはさまざまな要素があるが、
樹木はそのなかでも大きな存在感を持っている要素である。

しかし、大概の街路樹や公園木は、正しくない剪定をされ、ひどい地盤に植えられ、
枝を伸ばしては刈られ、根元はあしざまに踏まれ、落ち葉が邪魔だから切れと言われ、
毛虫が出るから嫌いだと言われる。

もちろん、木陰を作り、季節を全身で表し、僕たちを慰めてくれる存在であるはずなのだが、
当の植えた僕らが、木々をとても苛烈に虐待し抜いているというのが正直な実情だろうと思う。

もちろん、なかにはとても優しい扱いを受けている木もあるだろうし、
都市に木を植えるということは、日本庭園ではないけれど、かなり厳しい木の限界を試すような
管理もときに必要であることは分かる。


けれども、今の都市にあるような樹木は「いっそ殺してやった方がどれほど楽だろう」
という状況に置かれている。繰り返される剪定でこぶのようになった枝先。
腐朽し、キノコが生えていてもなんの処置もなく、それでも「咲け」と強いられる桜。

ここ最近、ベトナムを旅して、かの地でのびのびと育ち大きな木陰を作る木々を見て、
僕はこころの底から羨ましかった。そして、日本のことを恥ずかしいと思った。
ベトナムの剪定はとてもぞんざいだし、そんな剪定でも、素早い成長ですぐに回復するということはある。

けれども


少なくとも、ベトナムの人々は、木がいい感じの状態をよく知っている。
そしてそれが当たり前だと思っている。


それなのに、我が邦はどうだろうか。
苛烈な虐待の末に、美しい形にすらしてやらずにただ、棒杭のように並べられ、
落ち葉が邪魔だ毛虫が邪魔だと呪われ続ける樹木。


僕は樹木医になって、こうした虐待された木々の治療をまじめにやろうという気は、
実はあんまりない。そんな木はあまりに不憫で、いっそ殺してやろうと望んでさえいる。

その代わりに、すくすくと育ち、ときどきこまめに剪定をしてやり、美しい形に
瑞々しい葉を茂らせ、その生気に触れて誰もがいい気分になるようなそんな木であれば、
治療しがいがあるというものだ。

けれども、実際は、邪知暴虐な我々の仕打ちに辛うじてただ生きているだけということであれば、
さらなるコストと時間をかけて彼らをただ、だらだらと延命させて、その先に一体何が残るというのだろう。


そこに残るのは、ただ、無惨な風景であり、そしてそれに慣れて無惨とすら思わない
僕らの荒廃した精神である。


僕たちは当然のように、虐待され悲鳴を上げている樹木の間を嬉々として闊歩している。
そして、こんなものは嫌いだという。それなのに、桜は好きだといい、
流行の歌手が歌う桜の歌に涙し、熱狂し、「桜は日本人の心だね」などと嘯くのである。


とても傲慢だと承知で言えば、
僕は、ほんとうは、木の治療なんてしたくない。

治療しなきゃいけないような暴力を常態化させる狂気の渦のなかにいる日本人こそ治療されるべき存在で、
それを治療しなければ、病んだ木々は無限に生み出されることになる。

そして、恐るべきことに、ふと気がつくとそういうことならば、
仕事がなくならなくていいな!と思ったりする可能性がある、ということだ。


医者は決して不要になることはないだろう。
けれども、医者はその存在に、決して達成されないけれど、
いずれは自らの存在が不要になることを強く強く願う、ということを含んでいなければならない。

だからこそ、僕は今日から、すべての樹木医が滅亡するその日を目指して
不断の努力を開始したいと思う。


そのために、どうして日本人が狂い、木々が病み続けるのかを考え、
その病巣を取り除きたいと思っている。


そうして、それがもし叶ったならば、ベトナムにも負けないような、美しい木々に
彩られた美しい風景が再びこの国に戻ってくると信じている。


僕は、ただ、それを僕の大切なひとのために成し遂げたいと思う。
そうでなければ、この世界がどうなろうと、いっこうにどうでもいいからだ。心から。
自らの生存をかけて、小さくても一歩ずつ、正しく医者でありたいと思う。

僕がすべてできるなんて思ってはいない。
けれども、僕らは大勢いる。一人が斃れても、次が、次がダメでもその次、
何度でも何度でも何度でも何度でも立ち上がる。立ち上がって、楔を打ち込み続けると思う。


別に、深い意味なんてない。ちょっとかっこつけてる。

でも、ほんとうに美しい風景のなかで生きられたら、どれほど幸福だろうか。
そんな幸福を取り戻すために、これから一生懸命にやろうと思う。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

清右衛門

Author:清右衛門
みちくさ部長。北鎌倉たからの庭にて、草木についてのほほんと語る教室をしてます。教室&ワークショップ、ツアーや活動の記録、お知らせや、日々の雑感など。

ほかにも、編集的雑用・野草を生かしたランドスケープデザイン・植物調査・公共サインデザイン・グラフィックも少々やってます。

生態学畑。園生の森、おゆみ野の森でボランティア。
いけばな尚真。たまに俳句。

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。