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オズの魔法使いの案山子

今日の帰り道、つらつらと考えながら自転車をこいだ。
アホみたいな話だけど、齢30にしてもしかしたらそろそろ大人になるだろか、
みたいな気分でいる今日この頃である。

それで、「橋を焼いたな」と思って(いや、全体的にいろいろ)、
そのことをブログにしようと思っていたけどどうも考えがまとまらない。
とりもなおさず、今まさに橋を焼いているからなんだろうと思う。
橋を焼くというのは、なんというか、引き返しようのない状態に
自分が変化する過程をじっと観察しているというべきかもしれない。

シラカシとスギ
PB103407x.jpg

かわりに道具のことを考えた。道具というかモノについて。

なんの自慢にもならないけど、僕はモノを大事にまったくできない人間である。
本はつい、ぽいっと投げてしまうし、さすがに最近は気をつけているけど、
知らないうちに積み重ねたり、ふんずけたり落としたり…
図書館でやったら司書さんにさぞや怒られるだろう。

マムシグサだと思う
PB103400x.jpg

ツイッタで、@hijet6243さんが、82歳の名工さんに鍬と鎌を
作ってもらったと聞いて、ものすごく羨ましくもあり、きっと僕は
買っても大切にできないだろうな、という一抹の寂しさを感じたのでありました。
大伯父貴が買ってくれた木バサミ錆びさせちゃってそのままなのよね…とか。
鋸、目立てすれば使えるけど、そのままなのよね…とか。ちょとやるせない気分

シラカシの実生
PB103411x.jpg

あえて、そういう手入れが断固として必要な道具を手に入れて、
手入れをするよう自分に強いてみたらどうじゃろうと、
途中まで行きかける、剪定ばさみがまさにそれ。
けれども仕事がどたばたしているうちに、剪定もままならなくなると
自然とはさみもほったらかしになって、あ、錆びてる…
→凹む→なんとなく手にとらなくなる→余計錆びる
→もういい、このまま使おう。となり、ダメな感じなのである。

サラシナショウマが実っとる
PB103484x.jpg

自転車もそう。すっかり錆びたりしているけど、なかなか整備してやらない。
たまーにクレ556を射したりするけど、乗りっぱなし。
セールだったけど5万円もしたのに。
理屈から言えば、大事な足だから感謝して磨く、的な行動があったほうがいいわけだ。
そうする「べき」筋合いはよおく分かっている。
なのに、やっぱり習慣として根付かない。どうしてだろう。
どうしてだろうと、つらつらと考えた。
その、自転車に乗りながら。

境木
PB103511x.jpg

それで、僕が唯一大事にしているモノは何だろうと思ったら
カメラだった。でもそれも、比較的、ではあるけれど。
もっとレンズをいろいろ変えたりして可能性を試した「ほうがいい」のに
で、もっと考えたら、僕ときたら僕の身体自体をあんまり大事にしてないよな、
と、思い至った。どっちかというとかなりぞんざいに扱っている。
たとえば、まあ今もこうして夜更かししてブログなんか書いてる。
でも、身体を大事にする以上にこうして文字にでもしなきゃ
やってられないというということに僕の脳みそは価値を見出しているらしい。

タイアザミ
PB103529x.jpg

もちろん、そんなことを考えてるのも僕の脳みそなわけだが。
この「身体の不在」はここのところよく考える。
いろんなところで、「身体のリアリティー」は大事だす!と力説しているのに。
医者の不養生みたいな話だけど、自分の身体が不在だからその分、
他の人には、こんな風にしちゃダメだ!って言えちゃうのかもしれない。
まるで、難病の治療方法の確立を求める人みたいに。
オズの魔法使いのきこりと案山子とライオンのようなものかもしれない。
けれども、ああいう風に、血相を変えて探し求めてはいないのもまた事実。

アマチャヅル
PB103537x.jpg

身体がないので、(いや、あるんだけど)ないものは大事にできないわけで、
身体の延長としての道具もまた、感覚として大事にできない。
これが結論。
一方で、脳みその延長としてのカメラは比較的大事にしている。
確かに、スポーツもあんまりしないし脳みそ偏重なのは確か。
唯一好きな山歩きも、あんまり身体の声を聞きながらではない。
花があれば、うっかり危ないところにも行って撮ってしまう。
ほんとに山好きなら、リスクがあったら避けるし、対処したうえで撮る。
無謀なことはしない。

キヅタ
PB103388x.jpg

そうかそうか。もっと身体大事にしないとな。と思うが、
いまいちピンとこない。
ひどい話だが、おかんが転んで骨を折ったのだけど、やっぱりピンとこなかった。
そのままくたばればいいのに、とか。
まあ、ずいぶんひどいことを正直思った。
(※男の子なんてまじめに育てるだけ損ですよ奥さん)
くたばればいいのに、というか、あんまり興味が湧かない。
そうか、折れたか。という感じ。まるで、だるまさんが転んだような。
シクラメンの鉢がどら猫に倒されて球根がころんて
転がっていたことのほうがよっぽど堪えた。

スギ
PB103395x.jpg

いや待てよ。友達がほんとにありがたくって思わず泣いちゃうのに、
なぜ、おかんの骨折には(我ながらびっくりするほど)毛一本も心が動かないのかな
と思ったら、どうもおかんは、自分の範疇の内だからのようだ。
端的に言えば、親離れができていない。従って、
自分の身体がどうでもいいのと同じように、おかんがどうなってもどうでもいいのである。
いずれはおかんも、順調に行けば亡くなるだろう。そしたら、それなりに悲しいだろう。
それはよくいうように、「自分の半身がもがれるような」悲しみなのか自信がない。
もしかしたら「自分の半身」であるがゆえにまったく悲しくないかもしれないのだ。

ノコンギク、ではなさそうだなぁ
PB103435x.jpg

それに比べたら、きっと母方のおばあが亡くなった時の
突き上げるようなブラックホールのような悲しみや、
女の人に振られたときの絶望(笑っておくれよサンタマリア)のほうがよっぽどしんどい。
半身どころか全身なくなってしまやあいいのにと思ったものだ。
というわけで、僕の身体はどこにあるの? と思っていたら、

PB103515x.jpg

友達が、最近喘息(仮)になった。
これがもう、めっぽう心配なのである。自分のことよりもむしろ。
なんせ試してガッテンで、大人喘息は死んじゃったりすると
見たばっかりだったものだから、必死こいて何が喘息の養生になるんじゃろうと
あれこれ調べて、おうおう、これがいいらしいぞうとかメールしたりして。
(お節介な話だ)


そこで、内田樹師匠の文章を思い出した。
※うろ覚え「人は、利他的になるとき、初めて最高のパフォーマンスを出せる
で、それを自分で言ったらいけないのかもしれないけど、
どうやら僕は極端に自分を大事にできない代わりに、他の人に優しくできるらしい。
…いや、厳密に言うと、「他の人を大切にするわたし」が大好きなんだと思う。
どっちでもいい。結局のところ。
認識としての僕の身体はどこか違うところにあって、その身体のために
闇雲に、なにか違うものを大事にせざるを得ない。

そんなわけで、僕がもし優しさを発揮したとしても、
あまりありがたがってはいけませんですよ
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プロフィール

清右衛門

Author:清右衛門
みちくさ部長。北鎌倉たからの庭にて、草木についてのほほんと語る教室をしてます。教室&ワークショップ、ツアーや活動の記録、お知らせや、日々の雑感など。

ほかにも、編集的雑用・野草を生かしたランドスケープデザイン・植物調査・公共サインデザイン・グラフィックも少々やってます。

生態学畑。園生の森、おゆみ野の森でボランティア。
いけばな尚真。たまに俳句。

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